
53万坪という広さが想像できるだろうか。
写真中 A が午前中に行ったアウシュビッツ収容所。
B がこれから入らんとするビルケナウ収容所だ。
広大なその土地はなんと53万坪。
そこにナチスは10万人の囚人達を閉じ込めていた。
行く行くは20万人を収容する予定でいたという。

入ってすぐの管理棟から右を見ると男性収容棟が見える。
まん中に鉄道引き込み線が通っていて、
それを境に男女が分けられていた。
男性収容棟はごらんのような木造だ。

左を見ればレンガ造りの女性収容棟が。
手前の方には建物の跡しか残っていない。

鉄道引き込み線と管理棟。

見張り台も朽ち果てていた。
半世紀以上の時の流れを感じる。

私達は女性収容棟の方へと入った。

入ると同時に風が吹いてきた。
5月の風の爽やかさを私は感じた。
が、彼等にそれを感じるゆとりがあったのだろうか・・・

このように、ほぼ完全な形で残っている建物は少ない。

ナチスは退出時、証拠隠滅のため
あらゆる物を破壊して出て行った。
煙突だけが残った建物跡があちこちに見える。

ここには300棟以上のバラックが建てられたが、
殆ど完全な形で残っているのは45棟のレンガ造りと
22棟の木造造り囚人棟だけだ。
前にも述べたように殆どをナチが破壊して退出した。

女性収容棟内部。
うす暗い、家畜小屋のようだ。

「3段ベット」と呼ばれていた寝床。
1段に8人が、腐ったわらの上に寝かされていた。
3段というからには一番下の段にも寝ていたのだろう。
下も悲惨だが雨ともなると上段も悲惨だ。雨が漏るから。

天井部分。
瓦がむき出しになっている。当然雨は漏る。

馬か牛の餌場かと思ったら人間の洗面所だった。
邪口の数を数えると32個あった。
これを4000人が使用した。
ひとり20秒ときめられていたので、
全員が洗い終わるのには
単純に計算しただけでも42分もかかってしまう。
なお、身体は洗えなかった。

ここはトイレです。これも4000人が使用した。

説明を受ける一行。
まん中あたりにいる男性がガイドのピンドールさん。
左端の女性が添乗員。
学生のころからリュックを担いで
世界を回っていたという行動派の女性。
素敵な女性だった。

国旗を持った、修学旅行生らしきイスラエルの若者達が
破壊されたガス室の回りにいた。
民族主義的で、ちょっとイヤな気持ちになった。
ピンドールさんも顔をしかめていた。

破壊された、ガス室の内部。

同じく、破壊されたガス室。

男性収容棟。
もともとは52頭分の馬小屋。
今回は時間がなくて見学はできなかった。
ポーランドでは14歳になるまではアウシュビッツを見学させない。
認識が不十分な段階では誤った見方をする恐れもあり、
逆効果を考えてのことだという。
そのかわり、それまでに学校できちんと教え、
授業の一環として見に行くそうだ。
もちろん、親の責任において連れて行くのはいくつでもかまわない。
日本の場合はどうだろうか?
広島や長崎の原爆資料館に、修学旅行で行くのは確かだ。
だが、私は写真屋として付き添った数少ない経験でしか言えないが、
余りにも時間が少なすぎはしないか。
ガイドも付いていない。
各自がバラバラに見て、果たして理解が深まるだろうか?
「ここへは学習した後で、何をするべきかを教えてくれる教師と来るべきです。
そして、彼等の過去の歴史に涙するのではなく、独自の考えを持って欲しい」
博物館教育部長の言葉は、僕の胸奥にしみこんだ。

アウシュビッツ・・・終り

ーこのブログについてー
★写真はクリックすれば大きくなります。
★斜体で、アンダーラインのある文字をクリックするとリンク先に飛びます。
(例)こっちだよ

同行の一人が質問した
「『アンネの日記』のアンネの痕跡はありますか?」
ガイドのピンドールさんは
「アンネ・フランクという人はいました。
でも、その人があの日記のアンネかどうかを
確かめることは不可能です」
とそっけなく答えた。

私は考え込んだ。
ここはユダヤ人だけでなく、ポーランドや他の人達も含む
150万余が犠牲者になっているんだ。
アウシュビッツといえばユダヤ人(だけ)という見方は必ずしも正しくない。
ナチズムの犯罪による犠牲について、
ことさらユダヤ人だけをクローズアップすることはなく、
日記のアンネにしてもここでは夥しい犠牲者のひとりにすぎないんだ。
クローズアップするならば犠牲者ひとりひとりがそうされなければならない。
ピンドールさんのそっけない態度はそう言っているように思えた。

収容所内でもレジスタンス運動は密かにすすめられていた。
だが、見つかった者は、見せしめのために
仲間の眼前で射殺された。(花束のあるところ)

金網の向こうに、絞首刑台が見える。


3段ベット。一段にふたりが寝る。
ここはポーランド軍の旧兵舎を利用しているので住環境はいい方だろう。
だが、午後から行ったアウシュビッツ2と呼ばれる、ビルケナウは悲惨だった。

親衛隊の部屋だろうか?
壁にヒトラーの写真が架けられている。
この辺になると、写真を撮りながら進む僕は皆から遠く取り残されていた。

鉄条網には逃げ出せないように高圧の電流が流されていた。

大量虐殺がおこなわれたガス室に入る。

ここからチクロンBは投入された。(ストロボ使用)

ガス殺された犠牲者達はこのように折り重なって死んでいた。
信じられないくらいの人数だ。
出口に殺到したためにこのようになっているのだろうか?

死体を焼いた焼却炉。
あまりにも数が多い時には外に積み重ねられていたようだ。
ストロボを使用しているので明るいが、実際は薄暗い。

前館長(2000年当時)のスモーレンさんと交流した。
彼は収容所内のレジスタンス運動の中心的役割を担った人だ。
生き残れたのは身体が特別頑丈だったわけではく、
過酷な労働現場から事務職に配置転換されたからだと言う。

「生きてここから出られるという希望や展望はありましたか?」
という質問に対し
「生きて出られるとかよりも、ここアウシュビッツでいったい何がおこったのか、
後世の人々に伝えなければならないと思った。
私達の希望は未来に生きる子供達の上にあった」
と答えてくれた。
写真は外部の活動家達との連絡に使われた
タバコの巻き紙。びっしりと暗号文字が書かれていた。

アウシュビッツ2と呼ばれるビルケナウ収容所行きのバス停。
学生風の若者が数多く訪れていた。
つづきます

ーこのブログについてー
★写真はクリックすれば大きくなります。
★斜体で、アンダーラインのある文字をクリックするとリンク先に飛びます。
(例)こっちだよ

20世紀最後の夏、アウシュビッツへ行ってきました。
終戦記念日前後、テレビなどでは突然戦争特集になります。
まるで夏の風物詩って感じです。
でも、それらの多くは戦争の悲惨さを伝えるだけです。
それでいいのだろうか?
と、夏が来る度に僕は思います。
なぜ戦争を止めることができなかったのか?
戦争に反対した日本人はいなかったのか?
日本でレジスタンス運動はおこらなかったのか?
反対した日本人はいたしレジスタンス運動もおこった。
なぜそれを教えないのか伝えないのか。
外国のレジスタンス運動は英雄的に取り上げるのに、
本当に疑問です。
「団体旅行」で許される範囲内での行動です。
本などで見る写真とは比べ物になりませんし
僕はアウシュビッツについての研究者でもなんでもありません。
ここに記していく事柄は現地のガイドさんに聞いた事が主です。
なお、2000年当時の貧弱なPC環境での作業ゆえ、
写真のサイズも小さく、見づらいですがご勘弁を・・・

「働けば自由になれる」と書かれた皮肉なプレートをくぐり抜け、
収容所内へと入って行った。

女性がひとり放心状態で座っていた。
あまりの悲惨さにやりきれなくなったのだろうか?
どんな場所に行ったとしても、素敵な女性がいれば
レンズを向けてしまう私です・・・^^;

ナチは、強制労働につかす囚人達を鼓舞するべく、
捕虜の中から音楽経験者を選びだして楽団を結成し、
朝夕演奏させたそうだ。

「この捕虜収容所にはヨーロッパのいたる所から囚人が送り込まれた」
という事を表した図。中央の丸印がアウシュビッツ。
アウシュビッツという名は占領したナチがつけたもので、
元の地名はオシフィエンチム市という。今はもちろん後者だ。
解説を聞き、日本も同時代に朝鮮に対して同じ事をしたのを思い出した。
侵略者というのはする事が一緒だ。

ナチがこの地を強制収容所に選んだ理由として
・ポーランド軍の基地があったためその兵舎を利用することができた
・ふたつの川に挟まれていたため隔離するのに都合がよかった
・線路が通っていたため、大量に送り込むのに便利だった
などがあげられる。
写真で見るとおり、思ったよりきれいな事に驚かされた。
が、その思いは、午後にはくつがえされた。

当初ナチは、このように写真を撮って囚人達を管理した。
しかし、大量に送り込まれるようになると時間と経費の
節約のために、腕への入れ墨に切り替えた。
幼い子供の写真もあった。

死体を焼いている写真。
こういった写真が残っていること事体が珍しいそうだ。
というのも、ナチは退却の時、証拠隠滅のためにあらゆる
資料を焼却して出て行った。
そんな中の、かろうじて焼け残った写真の一枚だ。

こういった、オブジェ的展示品は少ない。

大量虐殺に使用されたチクロンB。

クツの山。
いったい何万足のくつがあるのだろうか。
犠牲となった人々一人ひとりが残したモノは、
圧倒的迫力で見る者を襲う。

義足類。
身障者も容赦なく連行された。
いや、戦争になると社会的弱者こそがまず抹殺される。
日本でもそうだったではないか。

可愛かったであろう子供の、
小さな洋服やおしゃぶりが見る者の涙を誘う。
いったい彼等に、虐殺されるべき何の罪があったというのか。

食器類。
ナチは、連行するにあたり持ち込む荷物の重量を制限した。
収容者はとうぜん軽くて高価な貴金属類を持ち込む。
彼等はそれらをかたっぱしから掠奪した。

かごやボストンバック類。
ここは悲惨さを売り物にしたりはしていない。
ただ事実だけが展示されている。
だが、その事実を直視する事により、
侵略者への強い怒りが湧いてくる。

メガネの山。

司祭の服で作った布。
*********
ガイドのピンドールさんの話によるとナチスは当初、
アウシュビッツをユダヤ人虐殺のために作ったわけではなく、
ポーランド人の政治犯を収容するために作ったそうだ。
そして、アウシュビッツがポーランドにあるために、
大量虐殺を行ったのはポーランド人だという
誤った認識を持つ若者が増えているらしい。
なお、ピンドールさんは日本留学の経験もあり、日本語はペラペラでしたw
つづきます

ーこのブログについてー
★写真はクリックすれば大きくなります。
★斜体で、アンダーラインのある文字をクリックするとリンク先に飛びます。
(例)こっちだよ

53万坪という広さが想像できるだろうか。
写真中 A が午前中に行ったアウシュビッツ収容所。
B がこれから入らんとするビルケナウ収容所だ。
広大なその土地はなんと53万坪。
そこにナチスは10万人の囚人達を閉じ込めていた。
行く行くは20万人を収容する予定でいたという。

入ってすぐの管理棟から右を見ると男性収容棟が見える。
まん中に鉄道引き込み線が通っていて、
それを境に男女が分けられていた。
男性収容棟はごらんのような木造だ。

左を見ればレンガ造りの女性収容棟が。
手前の方には建物の跡しか残っていない。

鉄道引き込み線と管理棟。

見張り台も朽ち果てていた。
半世紀以上の時の流れを感じる。

私達は女性収容棟の方へと入った。

入ると同時に風が吹いてきた。
5月の風の爽やかさを私は感じた。
が、彼等にそれを感じるゆとりがあったのだろうか・・・

このように、ほぼ完全な形で残っている建物は少ない。

ナチスは退出時、証拠隠滅のため
あらゆる物を破壊して出て行った。
煙突だけが残った建物跡があちこちに見える。

ここには300棟以上のバラックが建てられたが、
殆ど完全な形で残っているのは45棟のレンガ造りと
22棟の木造造り囚人棟だけだ。
前にも述べたように殆どをナチが破壊して退出した。

女性収容棟内部。
うす暗い、家畜小屋のようだ。

「3段ベット」と呼ばれていた寝床。
1段に8人が、腐ったわらの上に寝かされていた。
3段というからには一番下の段にも寝ていたのだろう。
下も悲惨だが雨ともなると上段も悲惨だ。雨が漏るから。

天井部分。
瓦がむき出しになっている。当然雨は漏る。

馬か牛の餌場かと思ったら人間の洗面所だった。
邪口の数を数えると32個あった。
これを4000人が使用した。
ひとり20秒ときめられていたので、
全員が洗い終わるのには
単純に計算しただけでも42分もかかってしまう。
なお、身体は洗えなかった。

ここはトイレです。これも4000人が使用した。

説明を受ける一行。
まん中あたりにいる男性がガイドのピンドールさん。
左端の女性が添乗員。
学生のころからリュックを担いで
世界を回っていたという行動派の女性。
素敵な女性だった。

国旗を持った、修学旅行生らしきイスラエルの若者達が
破壊されたガス室の回りにいた。
民族主義的で、ちょっとイヤな気持ちになった。
ピンドールさんも顔をしかめていた。

破壊された、ガス室の内部。

同じく、破壊されたガス室。

男性収容棟。
もともとは52頭分の馬小屋。
今回は時間がなくて見学はできなかった。
ポーランドでは14歳になるまではアウシュビッツを見学させない。
認識が不十分な段階では誤った見方をする恐れもあり、
逆効果を考えてのことだという。
そのかわり、それまでに学校できちんと教え、
授業の一環として見に行くそうだ。
もちろん、親の責任において連れて行くのはいくつでもかまわない。
日本の場合はどうだろうか?
広島や長崎の原爆資料館に、修学旅行で行くのは確かだ。
だが、私は写真屋として付き添った数少ない経験でしか言えないが、
余りにも時間が少なすぎはしないか。
ガイドも付いていない。
各自がバラバラに見て、果たして理解が深まるだろうか?
「ここへは学習した後で、何をするべきかを教えてくれる教師と来るべきです。
そして、彼等の過去の歴史に涙するのではなく、独自の考えを持って欲しい」
博物館教育部長の言葉は、僕の胸奥にしみこんだ。

アウシュビッツ・・・終り

昨日の続きです。

同行の一人が質問した
「『アンネの日記』のアンネの痕跡はありますか?」
ガイドのピンドールさんは
「アンネ・フランクという人はいました。
でも、その人があの日記のアンネかどうかを
確かめることは不可能です」
とそっけなく答えた。

私は考え込んだ。
ここはユダヤ人だけでなく、ポーランドや他の人達も含む
150万余が犠牲者になっているんだ。
アウシュビッツといえばユダヤ人(だけ)という見方は必ずしも正しくない。
ナチズムの犯罪による犠牲について、
ことさらユダヤ人だけをクローズアップすることはなく、
日記のアンネにしてもここでは夥しい犠牲者のひとりにすぎないんだ。
クローズアップするならば犠牲者ひとりひとりがそうされなければならない。
ピンドールさんのそっけない態度はそう言っているように思えた。

収容所内でもレジスタンス運動は密かにすすめられていた。
だが、見つかった者は、見せしめのために
仲間の眼前で射殺された。(花束のあるところ)

金網の向こうに、絞首刑台が見える。


3段ベット。一段にふたりが寝る。
ここはポーランド軍の旧兵舎を利用しているので住環境はいい方だろう。
だが、午後から行ったアウシュビッツ2と呼ばれる、ビルケナウは悲惨だった。

親衛隊の部屋だろうか?
壁にヒトラーの写真が架けられている。
この辺になると、写真を撮りながら進む僕は皆から遠く取り残されていた。

鉄条網には逃げ出せないように高圧の電流が流されていた。

大量虐殺がおこなわれたガス室に入る。

ここからチクロンBは投入された。(ストロボ使用)

ガス殺された犠牲者達はこのように折り重なって死んでいた。
信じられないくらいの人数だ。
出口に殺到したためにこのようになっているのだろうか?

死体を焼いた焼却炉。
あまりにも数が多い時には外に積み重ねられていたようだ。
ストロボを使用しているので明るいが、実際は薄暗い。

前館長(2000年当時)のスモーレンさんと交流した。
彼は収容所内のレジスタンス運動の中心的役割を担った人だ。
生き残れたのは身体が特別頑丈だったわけではく、
過酷な労働現場から事務職に配置転換されたからだと言う。

「生きてここから出られるという希望や展望はありましたか?」
という質問に対し
「生きて出られるとかよりも、ここアウシュビッツでいったい何がおこったのか、
後世の人々に伝えなければならないと思った。
私達の希望は未来に生きる子供達の上にあった」
と答えてくれた。
写真は外部の活動家達との連絡に使われた
タバコの巻き紙。びっしりと暗号文字が書かれていた。

アウシュビッツ2と呼ばれるビルケナウ収容所行きのバス停。
学生風の若者が数多く訪れていた。
つづきます
←クリックお願いします(m_m)

同行の一人が質問した
「『アンネの日記』のアンネの痕跡はありますか?」
ガイドのピンドールさんは
「アンネ・フランクという人はいました。
でも、その人があの日記のアンネかどうかを
確かめることは不可能です」
とそっけなく答えた。

私は考え込んだ。
ここはユダヤ人だけでなく、ポーランドや他の人達も含む
150万余が犠牲者になっているんだ。
アウシュビッツといえばユダヤ人(だけ)という見方は必ずしも正しくない。
ナチズムの犯罪による犠牲について、
ことさらユダヤ人だけをクローズアップすることはなく、
日記のアンネにしてもここでは夥しい犠牲者のひとりにすぎないんだ。
クローズアップするならば犠牲者ひとりひとりがそうされなければならない。
ピンドールさんのそっけない態度はそう言っているように思えた。

収容所内でもレジスタンス運動は密かにすすめられていた。
だが、見つかった者は、見せしめのために
仲間の眼前で射殺された。(花束のあるところ)

金網の向こうに、絞首刑台が見える。


3段ベット。一段にふたりが寝る。
ここはポーランド軍の旧兵舎を利用しているので住環境はいい方だろう。
だが、午後から行ったアウシュビッツ2と呼ばれる、ビルケナウは悲惨だった。

親衛隊の部屋だろうか?
壁にヒトラーの写真が架けられている。
この辺になると、写真を撮りながら進む僕は皆から遠く取り残されていた。

鉄条網には逃げ出せないように高圧の電流が流されていた。

大量虐殺がおこなわれたガス室に入る。

ここからチクロンBは投入された。(ストロボ使用)

ガス殺された犠牲者達はこのように折り重なって死んでいた。
信じられないくらいの人数だ。
出口に殺到したためにこのようになっているのだろうか?

死体を焼いた焼却炉。
あまりにも数が多い時には外に積み重ねられていたようだ。
ストロボを使用しているので明るいが、実際は薄暗い。

前館長(2000年当時)のスモーレンさんと交流した。
彼は収容所内のレジスタンス運動の中心的役割を担った人だ。
生き残れたのは身体が特別頑丈だったわけではく、
過酷な労働現場から事務職に配置転換されたからだと言う。

「生きてここから出られるという希望や展望はありましたか?」
という質問に対し
「生きて出られるとかよりも、ここアウシュビッツでいったい何がおこったのか、
後世の人々に伝えなければならないと思った。
私達の希望は未来に生きる子供達の上にあった」
と答えてくれた。
写真は外部の活動家達との連絡に使われた
タバコの巻き紙。びっしりと暗号文字が書かれていた。

アウシュビッツ2と呼ばれるビルケナウ収容所行きのバス停。
学生風の若者が数多く訪れていた。
つづきます
